事例研究もどき
看護学生当時、何を思ったのか学校に提出したやつ。今考えると超恥ずかしいんだけど、せっかくなので置いておきます←
双極性障害Ⅱ型
~看護学生としての闘病体験と感想~
1.はじめに
私は、看護学生でありながら、うつ病を発症してしまった。(後に双極性障害Ⅱ型と診断される。ただし、躁転したというわけではなく、医師の鑑別により診断が変わったのである。)心療内科初診時、うつ病を発症したのは自分の心が弱いせいだ、自分の頑張りが足りなかったのだ、怠けたいという気持ちがどこかにあったせいだと自分を責める私に、医師は「過酷なカリキュラムですから、あなたの他にもうつを発症する看護学生さんは結構いるんですよ。」「うつ病を克服して働いている看護師さんも沢山いらっしゃいます。」と声を掛けて下さった。その言葉に安心し、私は療養に専念するため、最終的に休学するという決心がつくことになった。
しかし、実際にうつに罹患歴のある看護師や看護学生がどのくらいいるのか気になり、参考にしようと文献検索やインターネット検索をしてみても、そのような事例をうまく見つけることができなかった。そこで、自分の事例を振り返り、体験談・感想文として書きおこしてみようと思った。
2.発症から受診に至るまで
(1)自傷癖
元々私には、中高生時代に自傷癖があった。看護学校に入ってからは、自分は看護学生なのだ、自傷なんてやってはならないという自尊心が自傷を止めていた。もしかしたらその過去も発症に関与していたのかもしれない。
(2)病前性格
そんな過去もあったが、本来の私は楽天的で明るく社交的な性格であったと自負している。同級生たちと楽しく会話し、時にはおどけて笑わせたりするのが大好きだった。何を言われても決してへこたれず、落ち込んでもすぐに忘れることができる。うつとは全くの無縁であると盲信していた。
また、うつ病には病前性格に真面目であるということが言われているが、主治医によると私もその傾向にあるらしい。主治医曰く「こうなってしまった」という原因を人のせいにすることなく、自分のせいだと考える人を真面目だと考えるそうで、自分にも思い当たる節があった。つまり、病前性格にも私には危険因子が少なからずあったようだ。
(3)自覚症状①:集中力・思考力低下
自覚症状を感じ始めたのは、X年次の2012年2月に入ってからである。やる気だけはあるのに、何故か学習に身が入らないというか、集中できない。何を書いて提出したらよいのか考えられない。軽度の精神運動制止である。実習記録物が出せず、何度も同じことで教員から注意を受けることが続いた。それにも関わらず、行動を改めることができない。このことから、自分は看護師に向いていないのではと落ち込み、悩むようになった。
(4)心理・社会的要因:喪失体験
さらに同時期、幼少の頃よく世話をしてくれた曾祖母を亡くした。この喪失体験も、うつ病を引き起こすさらなる要因となったのかもしれない。
(5)自覚症状②: 無価値観、過眠、罪責感
私は、幼い頃から看護師になることが夢だった。いつでも「自分は看護師になるんだ」という強い意志がいつも私の心の支えだった。つまり、「看護師を目指す自分」が私のアイデンティティかつ存在意義だったのだ。
「自分は看護師に向いていない、看護師になんてなれるはずがない、看護師になれないなら私が生きる意味などない」と抑うつ気分に陥り、一時はうつ病の可能性を疑うも、きっと月経前症候群で一過性の抑うつ気分になっているのだ、底抜けに明るい性格の私がうつ病だなんてありえない。本当にうつ病に悩んでいる方々に失礼だ。同級生だって皆同じ条件で頑張っているのに、私が抑うつ気分を訴えて受診するなど、甘えているだけだ。私はもっと頑張らなくてはならないのだ。そもそも、うつ病の主症状である不眠がないどころか、眠りすぎているのだ。(後になってから過眠も症状の一つであると知る。)とにかく私は頑張りが足りないのだとやる気や集中力に欠ける自分を責めた。
既にこの時点で楽天的で明るかった自分は居なくなっていた。何故かやる気が出ず集中できない、記録物が提出できず教員に注意を受ける。何を言われようともなかなかへこたれなかったはずの私が、自分は看護師に向いていないと落ち込む、の無限ループに陥っていた。それでもなんとか頑張らなくてはと頑張ろうとしても空回り、その度に自分の頑張りが足りないせいだ、もっともっと頑張らないといけないのだ、と自分を追い込み、全ては自分の気持ちの問題なのだと責め続けた。もう既に「グルグル思考」から抜け出せなくなっていた。
分かっているのに手が付けられない、集中できない。その度に何度も同じことで教員から注意を受けてしまう。他の同級生はきちんとやっているのにという焦り。さらにひどい眠気にも悩むようになり、記録物が出せずに教員に注意を受ける。そんな状態が数か月も続いた。そしてとうとうX年次2012年5月、教員に「あなたは看護師になれませんよ。」とはっきりと告げられた。この言葉で、私の心は完全に折れてしまった。その言葉は、私の存在意義・存在価値を全否定することを意味したからだ。
本来の精神的健康な状態であれば、反論も出来ただろうし、落ち込みを引きずることもなかっただろう。しかし、既に精神が疲弊してきていた私にとって、この一言はさらに落ち込みに拍車をかけるものだった。実際に、うつ状態で集中力や思考力、判断力の欠けた当時の状況では、この言葉は真実だ。だからこそ教員のこの言葉は、私にやる気を出させようと発破をかけるものだったのだと思う。しかし、ここではその言葉が逆効果となってしまったのだ。
(6)自覚症状から目を背け、一人で悩み続ける
それでも、私は同級生の友人の前では、楽天的で明るく振舞い続けていた。落ち込んでいるのは自分の性分に合わない。無理にでも気分を上げなければ。その結果、ちゃんと私は明るく振舞えているじゃないか、やはり私がうつ病などありえない、受診しようだなんて考えすぎだったのだ。とますます受診から遠のいていくのだった。
そのまま、私は楽天的で明るく社交的であるべきなのだと、同級生の前では無理にでも気分を上げようと振る舞い続けた。誰にも心が弱っている自分を見せるわけにはいかない。今となって思えば、こういった行動が軽躁状態と言えるのではないかと思う。実際に皆と居ると心から楽しんで笑うことが出来ていたし、よく眠れていた、というよりむしろ眠りすぎていた。うつ病イコール不眠という先入観があったので、やはり自分はうつではないと信じていた。こうして、誰に悩みを相談したらいいのかも分からず、一人で悩み続けていた。
(7)自覚症状③:焦燥
このとき、私は別のことでも悩んでいた。就職はどうすべきか。全く進路を考えていなかった。周りは進路を固め始めている。私は、進路もちゃんと考えなければと焦ってきた。
二重に悩み続け、また更に問題が立ちふさがる。ケーススタディである。実習で受け持った患者さんを事例に挙げ、看護計画を展開し論文にまとめなければならない。これには日々の記録物と考察が重要であるが、私は分かってはいるはずなのになぜかやる気になれず、集中力にも欠け、記録物の一切が提出出来なかった。当然、また同じことで教員に何度も注意され、同じことを繰り返してしまう。
看護師になれない自分に生きる価値はあるというのかという悩み、そして進路とケーススタディ。しかし全ては自分のやる気次第なのだ。ただ頑張るしか道はないのだと信じ、空回り。どうしたらいいのか。私はいっぱいいっぱいになっていく。私はもうこれ以上頑張れないという限界を、ギリギリのところで何とか保っている、そんな状態だった。自分を責めて追い詰め、あまりに辛く苦しかったことをよく覚えている。
(8)自覚症状④:死についての反復思考
ついに、「看護師になれないのなら自分に生きる意味はない」と考え、いろいろと死ぬ方法を考え始めた。今思えば、正常な思考・判断が出来なくなっていたのである。当時、三重県のいじめ自殺の報道が話題になっており、自分も死んでしまいたいという思いが強まっていた。一度は橋から身を投げる覚悟をするも、奨学金を返さなければならないのだと思いとどまった。正直に言うと、私は自分が奨学生でなければ何の迷いもなく自殺していただろうと思う。この時、一度母に電話を掛けている。母はこの時の電話で、私の憔悴しきった様子から自殺してしまうのではないかと案じていたという。それほどまでに私は追い詰められていた。
(9)心療内科を受診
もうどうしたらいいのか分からず、とうとう私と母、教務主任との三者面談を願い出た。ここでやっと、教務主任から心療内科を受診してみては、とすすめられる。しかし、まだ私は頑張らなければならないと粘ろうとした。私にはまだまだ努力が足りないだけだ、と。それなのに、親や学校に迷惑を掛けて申し訳ないとさらに自分を責めた。
しかしその後、限界を感じて心療内科を受診することになる。それまで押し殺そうとしてきた辛い思い、苦しみがまさに決壊するような感覚だった。不安、焦燥感、劣等感、自己嫌悪、抑うつ気分が押し寄せてきてとにかく辛く、動悸と過呼吸を起こした。ここまできてはじめて病院で診てもらわなければと思ったのだ。
3.診断から長期休学まで
(1)最寄りの心療内科兼精神科クリニックへ
2012年7月23日。自覚症状を感じ始めて実に約半年のことである。ここにきてやっと、もしかしたら自分は軽いうつ病なのではないかと気付く。私は睡眠も食事も良くとれているから、服薬治療で事足りるだろうと考えていた。
診察に呼ばれ、医師に事情と自分の思いを伝えた。なぜか涙がとまらなかった。感情失禁である。医師の診断は、「明らかなうつの症状が見られます。休学して地元に戻って治療してください。」だった。
医師は「自分が看護師に向いていないと思うこと、生きる価値がないと思うこと、迷惑をかけていると思うこと、それらは全て病気がさせていることです。今みたいに、訳もなく泣いてしまうのも症状ですね。不眠じゃないからうつ病じゃないと思ったって言ったけど、不眠は診断の必須条件じゃないからね。眠れてるし、食欲もあるからまだひどくはなっていないけど、うつ病ですね。勉強が手に付かないとかやる気がおきないとか、集中できなくなるのも、その症状によるものです。」とおっしゃった。そして、「生きる価値がないだとか、迷惑をかけているように思うことは全て病気がさせていることです。病気で正しい判断ができなくなっているんです。だから、そういう風に思って早まった行動をとるのはやめましょうね。」と、繰り返し注意をした。そして、私は1ヶ月の休学手続きを取り、実家へと帰省した。
ここでは抗うつ薬(アモキサピン)10mgと抗不安薬(ロラゼパム)0.5mg各1錠1日3回を処方された。しかしこれらの薬が効いたと言うよりは、医師の言葉に安心して気分が落ち着いたような感じがする。むしろ薬に体が慣れなかったためか、食欲不振と眩暈、起立性低血圧、ふらつき、過呼吸などの副作用と思しき症状に悩まされた。
(2)地元の精神科病院へ
紹介状を手に8月1日、今度は地元の精神科病院を受診した。ここでも医師の診断はやはりうつ病、少なくてもうつ状態に陥っているとのことだった。そして、寛解には半年から一年を要するため、さらに半年は休学しなくてはならないと告げられた。こうして、学校側とも相談した結果、私はひとまず今年度(平成24年度)いっぱいは休学することになった。 抗うつ薬(アモキサピン)25mg1日2回、抗不安薬(ロラゼパム)0.5mg、抗精神病薬(スルピリド)50mg各1日3回、不眠時用睡眠薬(フルニトラゼパム)1mgを処方される。はじめは薬に体がなかなか慣れず、食欲不振や眩暈に悩まされていたが、数週間で慣れていった。
4.休学中
(1)最初の休学手続きから2ヵ月間(2012年7月~9月)
i)罪業妄想
休学しはじめてからも、自責の念に悩まされた。休学して休んでいる自分が怠けているようにしか思えない。本当は私はうつではなく、勉強や実習から逃げたい気持ちがあったからこうなってしまったのではないか。もっと頑張れたはずなのに、うつのせいにして逃げたのだ。その証拠に、調子のよいときは至って普通(この状態こそが私の躁状態である)なのだ。そんな自分が許せない。まさに、うつ病の罪業妄想である。うつになってしまったのは自分のせいだと自分を責め続けていた。
そんな私に主治医は、うつになった原因を人のせいにしないで真面目に自分のせいにしないで、真面目に自分のせいだと考える人は、うつが悪化しやすいということを説明した。主治医曰く、私はその傾向にあるとのことだ。また、うつは少しずつ進行するものであり、明確な原因はないということを繰り返し説明してくれたが、私の罪業妄想は消えることはなかった。
ii)不安と不眠
自責の念と共に、様々な不安に苛まれた。一人になるとなぜかとても何とも形容しがたい不安に襲われる。怖くて電話も取ることができない。外出するのも怖い。こんな状態で本当に社会復帰できるのか。学院の先生方にどう思われているのか。自分に生きる価値があるのか。あらゆることが不安で、過眠で悩んでいた実習中とはうってかわって、今度は眠れなくなってしまった。
iii)保健師に相談
母の計らいで、市の保健所の保健師に話を聞いてもらうことになった。私は、うつ病でも本当に看護師になれるのか不安だと話すと、うつと闘いながら働いている看護師ももちろんいるし、看護師以外の職を選ぶ選択肢もあると話してくれた。それでも、自分が本当に看護師になれるだろうかという不安は払拭されなかった。
iv)自傷したい思いが再燃
不安になると、のどがつかえるような、胸がつまるような感じがして苦しくなる。不安が強いときには、動悸や過呼吸をおこすこともあった。そのように辛くて苦しいとき、誰にも吐き出せないとき、手首を切りたくなる衝動にかられたが、まだこの時点では耐えていた。
(2)双極性障害Ⅱ型と診断される(~9月26日)
9月26日診察時に、つけていた日記を主治医に見せたところ、うつ病ではなく、双極性障害Ⅱ型かもしれないと診断が変わった。気分の浮き沈みが見られると判断したようだ。
主治医の説明によると、私の場合、躁状態がそれほど強くなく、本当に軽度で、周りや本人から見ても「なんだか調子が良いな」という程度に感じられ、その調子のよい状態(これが私の場合の躁状態だと言う)とうつ状態が見られるのだそうだ。
この説明で、私は過去の状態を思い出し、納得することが出来た。2012年2月から抑うつ状態を自覚するも、調子のよいときは抑うつ状態であったことも忘れ、明るく友人たちと談笑したり、打ち上げと称して飲みに行ったりカラオケに行ったりする余裕があったのだ。だからこそ、再び抑うつ状態に陥ったとき、自分はうつではないのだからと思い、悩み、しかし受診するほどではないと葛藤していたのだ。それが、うつ病ではなく双極性障害Ⅱ型というのならば説明がつく。そうだとすれば、調子のよいときに「自分はうつなんかじゃない、ただ怠けたかっただけだ」と自分を責めなくてもよくなったわけだ。しかしそれでも、罪業妄想はなかなか消えなかった。
診断が変わったことで一部処方も変わった。抗うつ薬(アモキサピン)25mg、抗精神病薬(スルピリド)100mg、気分安定薬(バルプロ酸ナトリウム)200mg、抗不安薬(ロラゼパム)0.5mg各1日2回、不眠時睡眠薬(エスタゾラム)2mgを処方された。
(3)閉鎖病棟に入院(10月4日~10日)
ここにきて数年間抑えていた自傷癖が再発してしまった。リストカットをしてしまったのだ。しかし、原因は不安によるものではなく、母との些細な口論でのイライラだった。幸いだったのは、これがためらい傷程度のものだったことである。
そういうこともあり、家族にとっても私自身にとっても心身を休養させるため、私を一度刺激の少ない環境下におき気持ちを落ち着かせるため、そして外来ではなかなか行えない検査を行うため、といった目的で、任意入院という形で10月4日閉鎖病棟へ入院した。あえて開放病棟ではなく閉鎖病棟だったのは、出来るだけ刺激を避けるためという主治医の判断からだった。
入院中は、とにかく退屈で退屈で仕方がなかった。何もすることがなく、気が狂ってしまいそうだった。退屈なのがとにかく辛く、家族が恋しくて入院中ほとんど泣き通しだった。家族と私を隔離することで、普段私と接している家族の心身を休養させるという目的により、家族との通信が制限されていたため、余計に家族が恋しくてたまらなかったのだ。また、「自分が生きている意味が全く分からない」と訴えてはことあるごとに泣いていた。そして入院中も睡眠障害に変わりはく、余計に辛かった。
入院中には心理検査もあった。ウェクスラー成人知能検査WAIS-Ⅲと精研式文章完成法テストSCTを受けた。また、臨床心理士は、検査とは全く関係のない私の話を真剣に傾聴してくれ、心を落ち着かせることが出来た。こうして目的であった家族との隔離と検査を終え、退院した。
(4)退院後(10月~12月)
退院後、気分は比較的落ち着いたようだった。希死念慮がほとんどなくなった。しかし、やはり学校に戻りたいという焦りや、自分が家族を振り回してしまっているのではないかという心配が頭から離れなかった。
退院後の診察では、躁とうつの気分を落ち着けるため、少し処方が変えられた。気分安定薬(バルプロ酸ナトリウム)200mg、抗精神病薬(スルピリド)100mg、抗不安薬(ロラゼパム)0.5mg各1日2回、就寝前睡眠薬(フルニトラゼパム)1mgと同じく睡眠薬(塩酸クロルプロマジン12.5mg・塩酸プロメタジン12.5mg・フェノバルビタール30mg合剤)を処方された。
次の診察では、入院時に受けたWAIS-ⅢとSCTの結果を説明された。知能検査WAIS-Ⅲでは、知能は項目ごとにムラがあるものの平均すればIQは平均値とのことだった。性格検査SCTについては、自己評価が低く、他人からどう思われているかを気にするため、それが気分の落ち込みのもとになっているのかも知れないと言われた。全くその通りであると納得した。
その後しばらくは感情の起伏もそれほど大きくなく穏やかに過ごしていたが、一度は落ち着いた自責の念が再びわきあがってきた。さらに、自分が生きる意味が分からなくなった。「私は、空っぽで、空虚で、何もない。何も誇れることがない。消えてしまえたら、はじめから私なんて存在しなければ良かったのに。」不安だったが、睡眠状況は徐々に良くなってきていた。
処方がバルプロ酸ナトリウム200mgからカルバマゼピン100mgに変更され、睡眠薬もフルニトラゼパム1mgをブロチゾラム0.25mgに変わった。
(5)大量服薬で再入院(11月20日~28日)
その日は気分がとても落ち込んでいて、自分が生きている意味が分からないとしきりに訴えていた。ふとしたきっかけでもうなにもかもどうでもよくなり、眠るように静かに死んでしまいたいと思った。そして手元に残っていた睡眠薬31錠(塩酸クロルプロマジン12.5mg・塩酸プロメタジン12.5mg・フェノバルビタール30mg合剤8錠、フルニトラゼパム2mg2錠、ブロチゾラム0.25mg21錠)全てを一気に飲んだ。もちろんそれが致死量ではないということは知っていた。後先は全く考えずに狂言自殺を図ったのだった。この後、任意で閉鎖病棟へ緊急入院したのだが、意識が朦朧としており、はっきりと覚えていない。点滴で薬の解毒をしていたそうだ。
入院3日目、退院予定だったが情緒不安定で感情失禁が甚だしかったため、この精神状態のまま退院すると再び自殺を図る恐れがあるとの主治医と臨床心理士の判断により退院は見送りになった。この判断はまさに英断だった。退院したら私は今度こそ死のうと投身自殺をするつもりだったのだ。
今振り返ってみると、この日は本当に情緒不安定だった。頭の中が悲しいことでいっぱいになり、本当に朝から晩まで泣き続けていた。この日ほど一生のうちで泣いたこともないだろうと思った程だ。家族にも医師にも見捨てられたから退院できなくなったのだと思い込んでいた。また、休学中ではあっても看護学生としての自尊心はあったのに、この入院によって完全に自信を失ってしまっていた。あんな馬鹿なことをして、私には看護師になる資格を自分から捨ててしまったのだ。こんな私が学校に戻って良いはずがない。私の人生はここで終わりだ。家族にも友人にも、学校の先生方にも合わせる顔がないなどとマイナスの事ばかり考えては泣いた。
そして入院5日目。この日の出会いが私の考えを大きく変えた。運命と言っても過言ではないだろう。大量服薬や投身自殺を図ったといううつ病患者さんと出会った。彼女は、自殺は絶対にやめなさいと私に諭してくれた。そして、この病棟にもうつ病を克服して勤務している看護師がいるのだと希望を与えてくれた。
その後、MMPI ミネソタ多面人格テストとロールシャッハテストの検査を受け退院した。
(6)退院後(11月下旬~)
i)退院後診察
入院中の「自殺してはいけない」という言葉もあり、希死念慮はもうなくなっていた。本当に今回の入院が私の気持ちを大きく変えたのだ。
退院後の診察で、休学している自分が怠けているようにしか思えないと訴えた。希死念慮はなくなったが、罪業妄想がまだ残っていたのである。罪業妄想は病的な思考であるということと共に、頑張りすぎたからこうなったのだと諭された。また、MMPI ミネソタ多面人格テストとロールシャッハテストの結果、やはり自己評価が低いようだと言われた。自分では謙虚でいるつもりが、裏目に出てしまっているようだ。処方が抗精神病薬(スルピリド)100mg1日1回から抗不安薬(タンドスピロンクエン酸塩)10mg1日2回に変更された。
ii)リラクセーションセミナーに参加
母に誘われ、教育事務所が主催するリラクセーションセミナーに参加し、臨床心理士に個別相談をした。私は頑張りすぎた、頑張れなくなった自分は病気のせいだと受け止めても良いのではないかと言われた。分かっているはずなのに、未だに私は受け入れなかった。だが、人に話すことで少しだが心は軽くなった気がした。
iii)再び自傷を繰り返す
主治医と決して自傷はしないと約束したのに、再びリストカットを繰り返すようになってしまう。イライラして気分が高揚すると、感情が抑えられなくなり自傷してしまう。そして、後になってからなんてことをしたんだと自己嫌悪に陥る。まさに躁とうつの繰り返しだった。最初こそためらい傷が残る程度だったが、徐々にエスカレートしはっきりと傷痕が残るほどになってしまった。
主治医に正直に告白すると、自傷を繰り返すうちに感覚が麻痺して自傷にためらいが無くなってしまったのだろうと言われた。自分でも全くその通りだと思った。そして再び、自傷をしないことを約束した。
こんな状態なのに本当に新年度から復学することができるようになるだろうかと新たな不安がよぎるようになった。しかし、医師も臨床心理士にも良くなってきていると言われた。自分には全く自覚がなかった。
けれども、約束したあとも何度かリストカットを繰り返してしまっている。自傷を克服するにはまだ時間が掛かりそうだ。駄目だと分かっていても、感情をコントロールするのは難しい。
iv)睡眠薬を中止
眠れるようにはなってきていたが、睡眠時間がずれて夜遅く寝て昼ごろ起きるという生活サイクルになってしまっていた。睡眠薬が朝まで強く残ってしまうのだ。そのため、また、睡眠薬に頼りすぎて依存しないように、就寝前には気分を落ち着けて眠りやすくするために、睡眠薬ではなく抗精神病薬(オランザピン)0.5gを服用することにし、睡眠薬(フルニトラゼパム) 2gもしくは1gはどうしても眠れない時の為の最終手段として使用することとなった。
(7)復学が決まる
2月28日の診察時、4月の新年度から復学する方向に話がまとまった。復学しても実習に耐えられるか、レポートや論文などをこなしていけるか、途中で症状が再燃することはないか不安だと話すと、少しずつならして様子を見ながらやっていくことで無理せず、自己管理と通院しての服薬治療を続けてやっていきましょうと言われた。こうして、私の復学が確定した。
5.考察
(1)抑うつ状態と躁状態
抑うつ状態について、講義で病状を学習しているはずなのに、自分もその症状を呈しているとは認められなかった。普段ならおかしいと気付けるはずなのに、気持ちの問題とさらに自分を追い込んでしまう。うつ病の人は自分を病気とはなかなか認めないというが、私もその通りであった。精神が病んでしまって、心がボロボロになっていて、何かがおかしいということに気付けない。本当に自分では気付けないのだ。これが抑うつ状態に陥っている人にとって一番厄介なことだと思う。
私は、うつ病という診断から双極性障害であると診断が変わった。まだ私が受診せずに無理を続けていた頃、自分が抑うつ状態や躁状態にあるということが全く分からなかった。ただ気持ちが沈んで辛いままだったり、そうかと思えば元気になることもあったりして、私は病気などではなくただの我侭な怠け者なのだと思い悩んだ。その葛藤がなかなか自ら受診しようとしなかった理由でもある。でも今は、「気持ちが高揚して今はなんだか落ち着かないから躁状態だな」「この気分の落ち込みは抑うつ状態だろうな」となんとなく分かるようになってきた。自分で気分の変化に気付けるようになったのである。また、それが病気の症状によるものだと自覚することもできるようになった。主治医は、この進歩こそが快方に向かっていると考えられるという。
しかし、躁とうつの状態が自覚出来るようになっても、それをコントロールすることはまだ出来ない。うつ状態からくる希死念慮は、依然よりあらわれる頻度は減ってきたものの、今もたまにある。希死念慮に陥ると、本当に死にたくてたまらなくなる。母に自分を殺せと懇願したこともある。自分なんて何故生きているのだろう、死んでしまいたい、という思いで頭がいっぱいになり、もうそれ以外のことは考えられなくなる。そして、自殺の方法を具体的に考え始める。それほどまでに希死念慮は辛く苦しいのだ。
けれども、その後軽躁状態に転じ調子が良くなると、どうしてあんなに死のうとしていたのだろう、とうつ状態にあった自分の思考が理解できなくなる。しかし、どんなに辛く苦しい気持ちだったのかは覚えている。この辛さ、苦しさはどう表現すべきか分からないが、「自分の気持ちに自分が振り回されて苦しい」といった感じだ。躁状態で気持ちが高揚して苦しくなるときも稀にあるが、この場合も同様、自分の感情に振り回されて、制御出来なくなるのが苦しいのだ。自分の意志で「気分転換」が出来るようになるのが、今後の課題だと思う。
(2)罪業妄想
私がこの病で一番辛かった症状は抑うつ気分であるが、その次に悩まされたのが微小妄想、その中でも特に罪業妄想だ。この症状については、今もまだ悩み続けている。入院中行った心理検査でも分かったように、これは私自身のものの考え方からくるものが大きいようだ。抑うつ状態についてはそれが病気の症状によるものだと自覚できるようになったが、罪業妄想についてはまだそれが病的な思考であるとは受け入れきれていない。自分が存在価値のない、迷惑な人間だと考えたことが、希死念慮へとつながったこともあった。また、看護学生でありながら病気を発病してしまった自分を情けなく思い、この病気は自分の心が弱いから、また頑張りが足りないせいで罹患してしまったのだと思い、今でも自分を責め続けている。こんな厄介者が学校に迷惑を掛けてしまって申し訳ないと思っている。この考え方は病的な罪業妄想だと主治医に言われても、納得できない。これは病的な思考であると言われても、自分にとっては真実だと思うのだ。それでも、なんでもかんでも悪い方へ自分のせいだと考えていた一番ひどかった時期よりは、いくらか緩和されてはきている。
(3)薬物療法について
「薬が効いている」という実感はほとんどなかった。薬が効いているというよりも、「そう言えば気付いたらなんだか前よりは良くなっているかもしれない」という感じだ。気分障害の薬は、特効性のある糖尿病薬のようにすぐに効果が表れるものではなく、少しずつじわじわと効いてくるものなのだと思う。服薬し始めた当初は「本当に効いているのだろうか?」と疑ったこともあったが、主治医の指示通り薬を飲み続けた。その結果、半年かけて自分の気分の変化を自覚できるまでに回復したのである。主治医も、初診時と今とでは表情が違うと言っている。初診時よりも顔色が良くなったそうだ。感情失禁も今では少なくなった。
気分障害における薬物療法は、時間はかかっても必ず良くなると信じ、根気よく続けていくことが大切だと思う。
(4)傾聴の効果
私は、症状が出始めた2012年2月から今までの約1年間で、数回希死念慮に苛まれた。うち一度は、実際に未遂にまで及んだ。自分の存在価値、生きる意味が全く分からなくなった。私なんかが生きていてもなんの意味もない、消えるように死んでしまいたい、いっそ殺してほしい。不謹慎極まりないが、不慮の事故で亡くなった方が羨ましいとさえ思った。看護師のたまごなのに、自分の命の大切さが分からなくなった。そんな時、親身になって真剣に話を聞いてくれたのが、病院の総師長、医療相談員、臨床心理士だった。うつでボロボロになっている心に、一番効いたのは薬ではなく傾聴である。これは、私に限らず他の人にも言えることだと思う。
実習で自分もやってきたことなのに、傾聴にこんなにも効果があるとはよく分かっていなかった。自分が患者になってはじめて実感できたことである。
6.おわりに
うつとは本当に恐ろしい病である。人の心をゆがめ、ときには自殺へと追いやってしまう。
厚生労働省「人口動態統計」の資料による平成22年における死因順位別に見た年齢階級・性別死亡数・死亡率・構成割合を見ると、15~39歳の男女の死因第一位は自殺となっている。志望動機は健康問題が一番多い。このうち何割かはうつ病によるものだろう。
また、この病は、私の貴重な半年間を奪い去っていった。本当なら同級生と一緒に国家試験を受け、卒業できていたのかもしれないと思うと、私は本当に悔しく、悲しい。
闘病の心の支えになったのは、母の無償の愛と友人からのメッセージだった。母からの「生きて欲しい」「ただ生きているだけでいい」という言葉が私の胸を揺さぶった。休学する際、友人たちから貰った寄せ書きやメールでの優しい言葉が本当にありがたかった。
私は、この病気で失ったものもあるが、学んだこともいくつかある。前述の傾聴の効果もそうだ。他には母の愛、人の心の痛み、そして命についてである。心とは貴く、命はかけがえのないものだと考えていたはずなのに、自分の命が大切だとは思えなくなった。心はボロボロで、真っ暗な暗闇の中に一人取り残されているようだった。そして、母親という人は何故、無条件で自分のことを愛し、心配してくれるのか。この半年は、それらについて人生の中でよく考えさせられた期間だったのだと思う。
逆に、私がこの病気で失ったものは、半年という時間である。私は、この半年の闘病生活を棒には振りたくない。この半年の療養期間を、人生の中の無意味な空白期間だったとは思いたくない。うつがいかに苦しい病であるのかを知ってもらいたい。そして、うつと闘っている他の看護学生や医療職を目指す人に勇気を与えたい。そう思ってこの文章を打ちはじめた。この文章で、心が救われる人がいればいいなと思っている。
私はこの半年、おそらく実際には1年と1ヶ月の闘病生活を経て、元の看護学生として復学する。しかし、病気は寛解したということで、完治したわけではないのだ。おそらく、私はこれからも一生この双極性障害Ⅱ型という病気の症状と闘っていかなければならない。この病気であることを逆手にとって、人の心の痛みを理解し、癒すことのできる看護師になりたい。
参考文献・参考資料
野村総一郎. 双極性障害(躁うつ病)のことがよくわかる本. 講談社,2009
山田和夫.誰もがかかる心の風邪「うつ」の最新治療情報.土屋書店,2010
渡辺登.これでわかる うつのすべて.成美堂出版,2010
内閣府.平成24年版 自殺対策白書第1章 自殺の現状.
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2012/html/index.html