2016/03/11 19:18

requiem


※東日本大震災当時の地震や津波についての記述があります!

心的外傷がフラッシュバックするおそれがありますので、PTSD等ストレス障がいをお持ちの方は閲覧しないでください。

通勤バスの車窓から、掲揚された喪章と日の丸を見かけました。

そう、今日は私たち被災3県民にとっては忘れることの出来ない日。

あの忌まわしく恐ろしい災害が起こった日。

発災時刻の14時46分には、患者さんたちと一緒に黙祷を捧げました。

私の地域では、地震よりも津波の被害が甚大で。

市街地だった浜方面は、いまだに津波の爪痕が痛々しく残っています。

被災地で精神看護に携わっている者としては、あの災害がもたらした精神的な被害のケアも考慮しなければなりません。

津波に流されていく家族をあと少しのところで救うことができず、その自責の念のあまりに精神を病んでしまった方がいらっしゃると聞きます。

つらい記憶を忘れたいあまりに、アルコールへ逃げてしまった方も多くいると聞きます。

被害に遭われたみなさんの平穏と、

犠牲となられた方々の御冥福をお祈りいたします。

去年も記録していた、私自身の当時の体験。

記憶を風化させないよう、自分のためにもう一度引用文を載っけておきます。

『忘れもしない。

4年前のあの時は、成人看護援助論のグループワーク中で。

不穏な地響きと大きな揺れに、何が起こったのか分からなくて。

がたがたと揺れる机にみんなもぐりこんだ。

緊急地震速報の不気味なアラートが教室のあちこちで鳴り響いていた。

揺れはものすごく長く、本当に今起こっていることが現実なのか信じられなかった。

小学生の頃、地震はどんなに長くても1分以上続くことはないと教わった記憶がうっすらあるけど、あの時の揺れは明らかに1分よりも長かったと思う。

明らかに、普通の地震じゃなかった。

地震がおさまりきらないうちに、「ここにいたら危ない!」という先輩の声で教室から出ると、廊下の壁がボロボロに崩れ、外に出て見た校舎は歪んで斜めになっていて、明らかに危険な状態だった。

みんな恐れおののき、泣いている子も何人かいた。

沿岸部出身の私は、はっと津波のことが頭をよぎり、自宅と仙台在住の叔母夫婦に必死に電話をかけたけど、繋がらなかった。

みんなが、恐怖の中にいた。

当然、授業は続けられず下校となり、学校再開の目処もたつ訳もなく、明日以降も学校には来ないように、と告げられ、全員が帰路についた。

電車通学の人たちは、避難所へ向かい、家族からの迎えを待つことになった。

私含め、寮生たちは寮にしか帰る場所がなく、重い足取りで街を歩いた。

信号機はとまり、混乱で車が渋滞。

道路は盛り上がったりひび割れたり、建物の壁や看板があちこちに落ちていた。

その光景を見て、築数十年の寮が崩れているのではないかという心配もあったが、無事だった。

が、崩れてはいないものの、寮の壁のあちこちに亀裂がはしっていた。

水道、ガス、電気というライフラインは全て止まっていた。

真っ暗な寮で、反射式ストーブで湯を沸かし、食事と暖をとった。

ラジオから聞こえてくるニュースは、沿岸部の津波被害。

沿岸出身の学生たちはみんな、家族の安否を心配していた。

真っ暗な夜、何度も起こる余震に怯えながら交代で睡眠を取り、夜明けを待った。

これが現実だと信じることができず、友達が「私たち、○○先生の講義で寝てて、こんな悪い夢みてるんじゃないかな。目が覚めたら、いつもの日常が戻ってくるんだよ、きっと」と言った言葉が印象に残っている。

そうであればいいのに、とどれほど思ったことか…。

翌日は、寮生各自が確保していた食料で食事をとった。

そのまた翌日には、避難所で地震・津波の規模とその凄惨さを知った。

先輩たちは、「看護学生です」と名乗り出て保健師の手伝いを行っていて、素直にすごい、と思った。

比較的近くに実家がある寮生がひとり、またひとりと親の車で実家に帰っていき、残ったのは私含めて沿岸部出身の学生たち。

食料が底をつき、手分けして買い出しに行ったり、避難所に行って炊き出しをもらってきたりして空腹をしのいだ。

自家発電している避難所で携帯の充電はできるけど、肝心の電波が飛んでおらず圏外のままだったので、電源を切っておいた。公衆電話もつながらなかった。

発災から数日後の夜。

みんな寝静まった頃、寮の食堂(みんな、寮の中で一番安全と思われる食堂で眠っていた)の冷蔵庫のファンが回りだす音が聞こえ、

「電気がきたよ!」と私はみんなを叩き起こした。(ヤヨイうるさいって怒られたけど)

携帯の電源を入れると電波がたっており、一気にメールを受信した。

みんなの家族は無事だった。

私の家族も友達も仙台の叔母夫婦も、全員無事だった。

そして、安否確認と共に「ちょっと遅くなったけど、誕生日おめでとう」というメールも受信した。

そのメールは、保護して今でも記録に残している。

その後、一気に親の迎えで寮生は実家へと帰ってゆき、最後に残ったのは私と、私と同郷の先輩のふたり。

私たちの地元は交通の便が悪い地域で、親が車で迎えに来ることができないのだった。

発災から一週間ほど経ったころ。

20日に県の中心部から、私たちの地元行きのバスが出るとNHKニュースで知った。

同日には県の中心部へ向かうJRも復旧するとのこと。

そうして、発災から9日後の3月20日。

私と先輩は地元へと帰ってきた。

いたるところに自衛隊のキャンプができていた。

あの時の自衛隊の方々には、本当に感謝するばかり。

これが私の震災の記憶です。

津波の到達を高台から目撃していた友達もいる。

港の水産加工工場から、命からがら生存した友達もいる。

震災当時、安全な場所にいた私よりも大変な思いをした人たちはもっとたくさんいる。

「津波てんでんこ」の精神は、今後も忘れず、教訓として語り継がれていかなければならないと思います。

あの時のこと、決して忘れません。』

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